「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。
見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、
持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
高価な真珠を一つ見つけると、
出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」
(マタイ福音書13章より)


高価な真珠は「他の人のためにに尽くす」ことです。

イエスは「隣人を自分のように愛しなさい。」と言われました。


ソロモンはこのことをよくわかっていました。

だから、神様から望むものをなんでも与えようと言われたとき、

自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めませんでした。

ただ、自分が治める民の訴えを正しく聞き分ける知恵を求めたのです。


長寿、富、勝利などはソロモン自身のためのものです。

しかし、ソロモンは神からたずねられた時に自分のことを考えませんでした。

イスラエルの民のことを考えました。

そして願いました。

「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、

この僕に聞き分ける心をお与えください。」


もし、神様が今日あなたに同じことを言われるなら、つまり、

「なんでもあなたが願うものを与えよう」と言われるなら、

あなたは何を願いますか?


これに答える前にイエスの言われたことを考えて見ましょう。

天の国は神のみ旨(みむね)を行うところです。

「主の祈り」の中にこんな祈りがあります。

『み国が来ますように。

み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように』

だから天の国に入るためには、

神のみ旨を受けて、実行することが必要です。


上に書いた聖書の中に登場した人は、

畑で自分の普段の仕事をしていました。

わざわざ宝探しに出かけたわけではありませんでした。

わたしたちも毎日の生活の中で神のみ旨を見つけることができます。

ですから皆さんも、神のみ旨を知りたいならば、

親として、妻や夫として、学生として、会社員として、

司祭として、兄弟として

自分の毎日の生活を見てみましょう。

もし神のみ旨に従っているならば、

あなたはもう隠された宝を見つけたことになります。


また聖書の登場人物は、宝を手に入れるために

持ち物をすっかり売り払いました。

神のみ旨を行うためには

時に自分の意思、自分の望み、自分の時間を

ある意味、売り払わなければなりません。


真珠のたとえ話を考えてみましょう。

昔、真珠は人々の心の中に特別な位置を占めるほど

値打ちの高いものでした。

人々は真珠の値打ちのためだけではなくてその美しさのために

真珠をとても欲しがったそうです。


だからイエスは、真珠を天の国にたとえました。

真珠は人々が最も欲しがる宝石だったので

ユダヤ人たちはイエスが言っている意味がよく分かりました。


イエスがわたしたちに教えているのはこういうことです。

「神の国にいる」ということは「神のみ旨にしたがう」ことです。

神のみ旨を行うことは、きびしい、暗い、苦しいことではなくて

とても美しいことなのです。

犠牲、自制、十字架のむこうには

他のところにはない最高の美しさがあります。

心に平和、精神に喜び、生活に美しさを得る方法は一つしかありません。

それは、神のみ旨を受けてそれに従うことです。


もちろん他の真珠もありますが、

高価な真珠は一つだけです。

この世にはいろいろ良いものがあります。

これらの中にも人々は美しさをみつけることができます。

しかしこのような美しさも高価な真珠ほどの美しさではありません。


知識、音楽、文学、芸術の中にも美しさを見つけることができます。

人々への奉仕活動、またさまざまな人々との交流の中にも

美しさを見つけることができます。

これらも真珠です。これらも全部美しいものですが、

神のみ旨に従うほどの美しさではありません。

最高の真珠は神のみ旨を受けて、神のみ旨に従うことです。


それではもう一度イエスの言葉を聞きましょう。

「なんでも願いなさい。あなたにあげよう。」

答えは「主よ、あなたのみ旨!!!」


パウロも別の言葉で同じことを教えています。

「神を愛するものたち、つまり、ご計画に従って召されたものたちには

万事が益となるように共に働くことを、わたしたちは知っています。」


                               マホニ神父